福島応援

福島応援
みんなで集まってにっこりわらって

2013年12月22日日曜日

活動報告の会が無事終了しました

2013年12月22日(日)府中市白糸台文化センター講堂にて福島応援OnSongの活動報告会が開催されました。

福島県から札幌へ自主避難された宍戸隆子さんのお話を中心に、学生たちの発表、三多摩青年合唱団の歌など盛りだくさんの内容で、盛況のうちに無事終えることができました。

福島応援OnSong開始からまる2年が経ち、活動の中から生まれた新しいつながりや実践を振り返る良い機会となりました。札幌から佐川さんチーム、宍戸隆子さんが駆けつけて下さり、三多摩青年合唱団が街頭では難しい合唱を披露(この歌声に誘われて会場に来てカンパして下さった方もいらっしゃいました)したり、福島応援OnSongとともに福島を訪れた学生たちの発表があったり盛りだくさんの内容でしたが、ラストは会場の皆さん全員での歌で締めくくることができました。

 盛り上がった活動報告会の後、場所を変えて懇親会を開催しました。総勢40名近い参加者が集まりましたが、その内訳は福島に関わりのある方というよりも、難病患者とその支援者、学生と教授、留学生とその友達、ご近所、民謡歌手etc…と、とてもバラエティに富んだものです。持ち寄った手料理と笑顔の中で外国からの留学生達に宍戸さんが震災時の状況を通訳を交えて話をされていたのがとても印象的でした。これからの世界を担う若者に、伝えなければならないことが沢山あり、それを私たちが続けていく必要があることを感じます。肩肘張らずに、鼻歌交じりに、笑顔の中で続けていけば、楽しく長続きできるでしょう。福島応援OnSongはそれができると思います。次の機会も設けますので是非参加してみませんか。


2013年12月19日木曜日

活動報告会を開催します

福島応援OnSong 活動報告の会Part2
日時:2013年12月22日(日)14:00~16:00
場所:府中市白糸台文化センター講堂(京王線多磨霊園駅下車徒歩8分)
出演:三多摩青年合唱団、東京家政大学田中ゼミ、宍戸隆子
入場無料

ちょっと小さい会場ですが、入場無料です。

福島応援OnSOngのここ一年の活動報告のほか
福島から札幌へ避難されながらも、
自主避難者による自治会を全国で初めて立ち上げた
宍戸隆子さんのお話や

三多摩青年合唱団の合唱

東京家政大学田中ゼミの皆さんによる福島訪問レポートなど

盛り沢山の内容です

知ることこそが力になります
継続も力です
ぜひともご一緒しましょう

福島応援OnSong事務局

2013年10月3日木曜日

スタディツアー報告

~現地で学ぶ・田中ゼミからの報告~



去る9月17日、私たちは学生10名、教員1名の計11名で、福島応援On Songの支援を受けて福島県いわき市にあるいわき病院を訪問しました。前日は大型台風が日本列島を襲ったため、本来一泊で伺うはずの福島訪問が日帰りとなりました。前日に予定された文字盤教室や、いわき自立生活センター理事長長谷川様による福島の現状を理解するためのレクチャーが開催されませんでしたが、17日の朝のスタディーツアーから予定通りのスケジュールとなりました。
スタディーツアーは、居住制限区域と避難指示解除準備区域がある富岡町まで車で向かい、津波後の街並みを確認するものでした。最初にいわき自立生活センターの利用者であった筋ジストロフィーの男性が津波の犠牲となったご自宅跡を訪れ、当時の様子を語っていただきました。奇跡的に生き残られたお義姉さまの証言を理事長に語っていただき、自宅の屋根を超える波が押し寄せるのを見た時の彼の絶望的な気持ちを慮りました。

その後津波後に火災が起こった久浜地区を訪れました。少し先にはほとんど無傷の家もあり、久浜地区だけがすっぽりとなくなってしまっている。しかし、神社の櫓だけはぽつんと真ん中に残っている。ここで暮らしてきた人々の生活を思うと、心が締め付けられるようでした。

さらに富岡町に向かって車を走らせていくと、途中に大量の黒いビニール袋が田んぼを覆い尽くしている光景が広がってきました。除染作業で出た廃棄物です。稲穂がそろそろ実ってくる時期。震災前であれば美しい緑の、そして徐々に黄金色に変わる田んぼが続いていたはずなのに。

富岡町に入ると、ここに人が暮らしていたのかと思えるような草原の中に、津波で流された車が横転し、壊れたままの新しい家があり、無人の駅がありました。民家に車が突っ込んだままになっていたりなど、二年半以上たった今でも震災当時の状態が変わっていない。やるせない気持ちでいっぱいになりました。
移動中、線量計で放射線量をはかりながら移動しました。今回の訪問は線量の高くないところだけ選んで外に出ているのですが、それでも東京の10倍程度(0.2マイクロシーベルト)と聞くと、ドキッとするし、見えないけれど、見えないだけに、恐怖感だけが自分の中で徐々に大きくなっていきました。車を降りるときの覚悟、これが毎日続いたら精神的に追い詰められてしまうと感じました。福島の人々の気持ちをほんの少しでも体験的に理解することができたのかもしれないと思っています。

予定時間を10分遅れていわき病院に到着。看護師さんたちのレクチャーと指示のもと、学生は各病棟に2~3名ずつ分かれて配置され、患者様と触れ合うことができました。10月5日の秋祭りに向け、顔を覚えたり、病院内の状況を理解するなど、大変いい時間を過ごさせていただきました。途中佐々木さんたちも病院に到着され、ようやく全員がそろってのONSONGの活動となりました。
最後に病院前で記念撮影をし、私たちはバスに乗り、駅に向かいました。バスからはいわき病院周辺の被災地域が広がり、看護師さんのレクチャーにあった病院の被災状況を慮る時間となりました。
次回は10月5日に秋祭りに参加させていただき、今年の訪問は終了となります。皆様のご支援のおかげで学生の学びが深まり、私も大変多くのことを学ばせていただいております。人間として私たちが成長する機会を与えてくださっている活動に心より感謝いたします
(田中恵美子 東京家政大学)

スタディツアー写真報告

長谷川さんが筋ジストロフィーの方のお宅を説明


長谷川さんの説明を聞く



地震・津波・火災のため荒れ野になった久浜地区
その中で残った神社




田圃を埋め尽くす除染処理後の廃棄物


富岡町市役所から見える高台、震災後、手を付けられていない立派な家



駅に向かう途中にも震災後そのままの家が


地元消防隊の車


倒れかけた電信柱の下で説明を聞く






津波の被害を受け、そのままの駅




外へ久しぶりに出かける

2013年9月11日水曜日

9月11日活動報告

今回はキーボードの上村さんが欠席で、ギターと歌で盛り上がりました。
パネル展示も好評でしたよ!

沢山の募金も集まりました。
みなさま、ありがとうございます







9月11日チラシ②

~若い人たちの声・3~

前回6月11日の街頭活動では学生達がボランティア参加をしてくれました。街角で自分たちの意見を人々にアピールすることが初めてという学生も多く、とても良い経験、勉強になったようです。学生達の感想をまとめてみました。



震災がどれだけ障害者の方たちを苦しめてきたのか、また人の命と原発はどちらが大切なのか、改めて全ての人々に問い掛けなければならないと思いました。言葉だけでは伝わりにくい部分は確かにあると思います。歌で投げかければ誰もが聞いてくれる、楽しむことができる、またコミュニケーションの場が広まっていくと感じます。福島の方たちは地震だけでなく放射能の恐怖ともたたかっていたのだと「つぶてソング」の歌詞を読んで感じました。募金活動で思ったことはまだまだ原発の恐ろしさを知らない人たちが多いということです。活動をいっさい見ずに通り過ぎる人たちが何人もいました。「私たちには関係ない」という今が当たり前になっているところを直していかなければならないと強く思います。それと反対に、活動を見てくれる、歌を聴いてくれる人たちが多くいて、とても嬉しい気持ちになりました。みんなで協力し、支えあえばきっと何か成功しますし、希望になります(3年生MO)

東日本大震災から2年が経ち、以前よりも現地の状況があまり伝わることが少なくなっている気がしますが、それでも今回の活動に協力してくださる人の数から、忘れてはならないと思う方が多くいることが分かり、このような活動の大切さがわかった気がしました。
ヘルパーが足りないということは、介護が必要な方々が生きていくことが難しいということで、それはとても大きな問題だと思いました。表面的には出てこない、そのような現状があるということをきちんと知り、考えていかなければならない。(3年生NM)

将来を背負う若い人たちに、私たちはあまりにも重い課題を残してしまいました。学生達の言葉を頼もしく感じるとともに、それぞれの世代がみんなでこの問題に取り組む必要を改めて感じます。

9月11日チラシ①

~福島と広島が被る~

学生時代を広島で過ごした米谷さんからの寄稿です

先日オリンピックの東京開催が決定した。
連日マスコミが日本中が歓喜に大喜びしている様子が報道されているが、見るたびに心が冷えていく。汚染水の問題を住民の環境や漁民の生活の心配ではなくオリンピックが招致できないと言う本末転倒の心配になっている。首相が「安全です。安全です。」と唱えるたびに「そんなに安全なら福島でオリンピックをやればいい。」と言った福島の人もいた。

私は40年前広島で学生時代を過ごした。終戦から30年経っていが、私の周りにはまだ多くの被爆者が苦しんでいた。毎年夏になると原水禁や原水協が年に一回だけやってきて、かき混ぜて帰っていく。それを地元の人たちは冷めた目で見ていた。

今回そのときの冷めた気持ちを思い出した。

大学の前には通称原爆病院と呼ばれる病院があり、重度の原爆症といわれる症状の患者が多く入院していた。今のように介護制度もないから、外へ出ることも出来ず病院の中でこもったまま生を終えていった。病院にもいけず、自宅でのたうちながら、あまりの苦しさに耐え切れずに自らの生を断ち切った人もいた。彼(彼女)らは被爆者手帳をもらえず高額な医療費も払えなかった人たちだ。

まだ20歳前後の私は色んな感情が入り乱れながらそれらを複雑な思いで見ていた。

私が大学生活を送っていた昭和50年代の広島は、はだしのゲンがむさぼり読まれ、平和教育と言う事で学校の先生たちが核兵器の事を教えていた。そんな環境の中で出会った二人を私は思い出す。一人はバイト先の工場の社長で、ご夫婦ともに被爆された方だった。私とであった頃は大きな症状も出ることなく過ごされていた。彼は被爆をしたと言う事以外は工場は順調で家族も子ども三人孫六人、とても中の良い家族だった。そしてとても幸せだった。その彼が怒りをあらわに語ったことがある。

「俺たちだって泣きたい事もあれば笑いたい事もある。でも被爆者が能天気に笑っていると批判されるんだ。俺たちはいつも眉間にしわを寄せて深刻そうな顔をしておかんといけん、みたいにな。特に政治家やマスコミが大勢集まる8月6日にはな」

被爆した人々はいつ髪の毛がごそっと抜けるのか、いつ歯ぐきから血が出て止まらなくなるのか、いつ身体中がだるくて朝起きられなくなるのか、そういった恐怖と戦いながら生きている。そんな中で社長が望んでいるのはみんなと笑ったり、怒ったり、泣いたり、ありのままの自分でいられる幸せ。いつ発病するかわからないから、今を存分に楽しみたい。政治に利用されて堪るかという怒りだった。ちなみに彼の工場も家族もとても明るく楽しい。

 もう一人は被爆二世と呼ばれ、自身は健康で症状は出ていない人だったが先の社長と対照的な私の先輩の話だ。一年上の彼女は特別親しいわけでもない私にある日話しかけてきた。「私は被爆二世なの。だから結婚も就職も出来ないの。」この突然の告白に青二才の私はどう返して良いのか判らずただ聞いていた。彼女は健康で聡明で美人だった。発病もせずに、はつらつと生きられるはずだった。しかし、放射能がまるで移されるかのごとく扱われ、彼女の周りには友人がいなかった。彼氏候補が多数いてもおかしくないくらいの美人だったが孤独だった。

結婚はあきらめても就職をと思っていたところにそれもダメと言う偏見をぶつけられたらしい。明日を閉ざされた彼女の闇は私に愚痴をぶちまけたぐらいでは晴れない。半年後彼女は大学に来なくなった。そして苦界に身をおいているという話が入ってきた。一年後彼女はビルの屋上から身を投じた。身体は健康なのに心が蝕まれた。偏見と差別によって。

これらの話は原爆が投下されてから30年後のことだ。福島は当時の広島ほど放射能が強くないにせよ、30年間被爆し続けると第二、第三の彼女が出てくるかもしれない。
放射能は臭いもなく見えもせず痛くもない。全く存在を感じさせぬ忍者のようなものだ。その中に人間が無防備に入って行き被爆してしまう。原爆病とよばれる症状になっている方のかなりの方が8月6日投下時ではなく、何日かして近隣の村から親類を助けに来たり、今で言うボランティアのように片づけにやってきて一週間、二週間と滞在するうちに被爆をした人たちだという。それは70年前の話だろうと言う人もいるかもしれない。そうだろうか。福島に除洗に来た作業員が防護服をつけずに被曝したと言うニュースは最近の事だった。70年経っても放射能の専門家はこの程度の知識しか持っていない。そんな人たちの語る安全にはクエスチョンマークがついてしまう。放射能の残存した中での70年前の人たちの被爆、40年前の私の見てきた偏見と差別、古い話なのだろうか。「福島ナンバーの車はあっち行け」と言われた人がいた。広島よりは放射線量は少ないかもしれない。しかし、30年浴び続けた子どもはどうだろう。その人が健康でも結婚や出産の時に何の障害も出ないのだろうか。誰も答えを出していない。

政治の世界では国内の混沌から国民の目を逸らさせる時、国の外へと関心を向けさせる。今回のオリンピック騒動がそうではないか。汚染水の問題や福島の現状から国民の意識を切り離し、その間に他の原発をチョイチョイのチョイと動かそうとしている風に見えるのは私だけだろうか。
オリンピックの狂騒から、昔の広島と現在の福島がかぶるのを感じてしまう。

2013年8月11日日曜日

8月11日活動報告

まさに酷暑の8月11日でしたが、地元のお祭りや日曜、お盆休みの人手で賑わうフォーリス府中前にて定期活動を行いました。
 夏休みと日曜日の両方で子どもも沢山来ました。
みんなの心に何か伝わってほしいなと思います

 札幌から佐川さんが駆けつけてくださいました!
同じく札幌へ避難されている宍戸さんが思いのこもったアピールをしてくださいました。
「あの事故の時、必死に頑張ったのは私たち地元の関係者なんです!そして今、私たちはふるさとがなくなってしまいました。福島の原発事故は決して人ごとではないことを考えてください!」
 今回の新しい試み。視覚に訴えるためにパネル展示をしてみました。参加者が持っているパネルを道行く人が興味深そうに眺めます。効果ありです!
原発紙芝居、ティモシー氏の報告につづき、今回はヒロシマ・ナガサキの歌をとりあげました。

実は14:45を過ぎたあたりから凄まじい雷雨となりました。間一髪片付けが間に合いましたがフォーリス一帯で停電になり、駐車場が開かなくなるハプニングがありました。

8月11日チラシ3

~ティモシー・ムソー氏の講演~

原発に技術者として勤務された経歴を持ち、原発紙芝居の作者でもある「山田太郎」さんより報告です

7月29日13:30から第一衆議院議員会館多目的ホールで開催された、米サウスカロライナ大学・生物学教授ティモシー・ムソー氏の講演「放射性物質の生態系・遺伝的影響」(主催:春を呼ぶフォーラム&7・29実行委員会)を聴いてきました。
ティモシー氏はチェルノブイリの周辺で14年間、3・11事故直後の7月から福島県での調査を開始し、6回も福島県内を訪れ現地調査を行っています。そして結論として、次のような発見があったと報告しました。
科学的(統計的)手法での調査結果としてこのような報告を聴いたのは初めてです。恐ろしい内容ですが、今後の日本の針路を考えるためにとても参考になると思います。

「チェルノブイリと福島の野生生物研究における主要な発見:

  1. 研究した生物の大部分で、放射性汚染物質への被曝レベルに正比例して、遺伝子損傷率が有意に上昇している
  2. 研究した生物の多くで、汚染レベルに正比例して、奇形率および発育異常(発生的異常)率が上昇している
  3. 研究した生物の多くで、出生率が低下している
  4. 研究した生物の多くで、寿命が短くなっている
  5. 研究した生物の多くで、個体群の規模が縮小している
  6. 研究した生物の多様性が有意に縮小する。多くの種が局所的に絶滅
  7. 突然変異が世代から世代に伝えられ、経時的蓄積の兆候が見られる
  8. 突然変異は放射能汚染地域から、被曝していない個体群に移動している(即ち、固体群バイスタンダー効果)」


また、質疑応答の中で、ティモシー氏は上記のような野生動物へ影響は人間にもありうるだろうと答えていました。

終了後の懇親会で、コメンテーターとして参加していた東北大学医学部の岡山博さんと懇談していろいろ貴重な勉強ができました。岡山さんのコメントで胸を打ったのは、彼が最後に言った「3・11事故の本当の原因は日本では自由な議論ができなくなっていることだ」という言葉でした。

会場からは「日本も東電も、原発爆発の敗北を認めず、原因調査もせず!これじゃ戦時中の、アジアで2000万人を殺し・日本人を300万人殺した天皇制の大日本帝国支配の、大本営と同じと」意見が出ていました。
日本という国家は、自然を敵に回しても、大敗北を喫したのだと私は思います。今のままでは、この後、どんな形の「無条件降伏」をしなければならなくなるのかが心配です

8月11日チラシ2

~若い人たちの声・2~

前回6月11日の街頭活動では学生達がボランティア参加をしてくれました。街角で自分たちの意見を人々にアピールすることが初めてという学生も多く、とても良い経験、勉強になったようです。学生達の感想をまとめてみました。


私自身、震災の現場を実際に見ることなく2年3ヵ月が経過しメディアの報道も少なくなったことで正直なところすでに過去のことであるような気がしてしまっていました。しかし、まだ今現在も原発事故が解決したわけではないし困っている人、避難している人がたくさんいるのだということを改めて感じました。そして私が被災地に対してできる募金もボランティアもわずかですが、大切なのは震災があったこと、困っている人がいることがいるということを忘れないことだと思いました。人手が足りない今、お金よりも先に送るべきなのは人なのだと思いました。ボランティアに行きたいという意志があっても、交通費、食費、宿泊費など個人ではなかなか出すことができず行けない人が多いのではないかと思っていたため、その部分を援助することによってボランティアに行ける人が増え、さらに人手が増えることで一人でも多くの人が在宅で暮らし続けることができるといいなと思います(3年生EY)

様々な年代の方が募金してくださっていましたが、やはり年配の方が多かった気がしました。それに比べて、高校生や大学生、20代の方々が見向きもしないで前を通りすぎていき、すごく悲しくなりました。若い人たちに知って欲しいな、また、他人事にしないで、もっと関心を持って欲しいと強く思いました。震災から2年が経って、支援や救済など薄れてしまっているな、と感じます。被災地の現状や、病院、ヘルパー不足の現状をしっかり見て、様々なことを学んで、感じて、帰ってきたい。知っている歌があまりなくて横断幕を持って立っているだけになってしまいましたが参加出来てよかったです。(3年生RS)

将来を背負う若い人たちに、私たちはあまりにも重い課題を残してしまいました。学生達の言葉を頼もしく感じるとともに、それぞれの世代がみんなでこの問題に取り組む必要を改めて感じます。

8月11日チラシ1

~原発事故は福島だけの問題ではありません~

福島から札幌へ避難された宍戸さんからの報告です

福島市や郡山市を訪れたなら、皆さんはきっと「福島は復興した。」と思われるでしょう。
駅前は人や車が行きかい、お店にはたくさんのものが溢れ、震災以前とあまり変わらぬ街並みがそこにそのまま存在する。誰もマスクなんてしていません。習い事に通う子どもたちが目の前を通り過ぎていきます。あまりにも普通の、どこにでもある地方都市の風景。

なーんだ、心配することはなかったんだ。きっと、そう胸をなでおろすことでしょう。

ですが、この景色の隅っこには放射線量を知らせるモニタリングポストがあります。
宿泊するホテルには「室内の線量は0.05マイクロシーベルト/毎時ですので安心してお過ごし下さい。」という貼り紙があるかもしれません。市街地をちょっと外れた田園の中に、汚染された土がみっしりと詰められた黒や白の巨大な袋がいくつも並べられている風景を見ることもできるでしょう。さらに太平洋側に車を走らせれば、今なお自由に出入りできない場所が、そこには存在し続けています。

私の故郷の町には原発がありました。私の実家のある場所は、放射線寮が高く居住制限区域に分類されています。町が誇る桜の名所は、今なお立ち入りが禁止されています。皆さんは、ある日故郷を取り上げられるということが、どういうことか考えたことがありますか?

震災当時、私は東京電力福島第一原子力発電所から50キロ以上離れた町に住んでいました。一番濃い放射性物質を含む風が吹いた方角にありますが、国からの避難指示は出ませんでした。
私は現在、自主避難者として家族で札幌に暮らしています。ですが自主避難者の6割から7割が小さな子どもとお母さんという組み合わせの母子避難です。お父さんは福島に残り、二つ竈を支えるために働いています。親子が離れ離れになっても、子供の健康を守りたいと考えた末の選択です。
一見、日常を取り戻したように見える福島から、私のもとへ「避難をしたい。」という相談がたくさん寄せられます。福島に残ることを決めた方の中にも「本当は、福島で暮らすことを安全だなんて思っていない。」「水もペットボトルを買っているし、野菜も遠くのものを取り寄せている。」そう、泣きながら話される方がいます。そんな不安を福島で誰かと共有することは実はなかなかできません。放射能は危ないと考えることが復興を妨げると言われてしまうからです。
福島は、補償の有無や放射線による健康被害に対しての危機感の差などが人間関係をきしませています。

放射線の影響については、実際これから何が起こるのか誰も正確に予測はできていません。

そこに住み続けることがいいのか、家族や友人と離れても避難をすべきなのか、明確な答えはどこにも存在しません。長期の休みだけでも子どもたちの体を休ませてあげたいと、この夏もたくさんの保養企画が組まれています。

福島の事故は未だ継続中です。つい最近になって放射性物質を含んだ水が海に流れていたことも発表されました。

どうか、福島の原発事故を、ご自身の事として考えて欲しいのです。

みなさんが明日、この場所を追われることになったら、その時どうするかを考えて欲しいのです。今、胸いっぱい吸い込んでいる空気は安全なのか?喉を潤す水が安全なのか?そんなことを考えながら日々を生きるというのはどういうことか考えて欲しいのです。原発事故は福島だけの問題ではありません。
(宍戸 隆子)

2013年8月9日金曜日

8月11日定期活動のおしらせ

8月11日(日)14:00からフォーリス府中前で定期活動を行います
この日は府中商工まつりの最終日とも重なるため多くの人出が予想されます
混雑が激しいようでしたら府中駅寄りの場所で活動をする予定です
よろしくお願いします


福島応援OnSong定期活動
2013年8月11日(日) 14:00~15:00
・歌とあいさつ
・避難先の札幌からアピール(佐川さん)
・ヒロシマ・ナガサキの歌
ほか





2013年7月23日火曜日

コンサートに顔を出します

「命の賛歌」チャリティーコンサート
~歌や踊りで、命の素晴らしさ、生きている喜びを~
日時:2013年8月2日(金) 開演午後1時30分(開場午後1時)
場所:府中の森芸術劇場ふるさとホール
入場券:大人1,000円、小中学生500円、障がい者・介助者500円

出演:東京ドンパン楽団・つくしんぼ合奏団・青空児童合唱団・府中紫金草合唱団・福島応援OnSong・ホットジェネレーション・再生の大地合唱団・コットンハウスフレンズ・東京CRABランナーズ・クッキングハウス・がんばっぺし大槌(販売)


福島応援OnSongは活動と現状のアピールをさせていただきます。
「花は咲く」「つぶてソング」もご一緒させていただく予定です
リハーサルの様子ですが、こんな感じで舞台に陣取ります。
みなさまのお越しをお待ちしております


7月11日活動報告

今回は福島県いわき市より自立生活センターいわき所長である長谷川さんが、現地の深刻なヘルパー不足、放射能汚染の不安についてレポートをしてくださいました



今回の写真は世田谷から駆けつけてくださいましたWさんよりいただきました。
深みのある素敵な写真をありがとうございます!

2013年7月11日木曜日

7月11日チラシ③

~若い人たちの声~

前回6月11日の街頭活動では学生達がボランティア参加をしてくれました。街角で自分たちの意見を人々にアピールすることが初めてという学生も多く、とても良い経験、勉強になったようです。学生達の感想をまとめてみました。


  • 私は最初旗を持つ係だったのですが、社会勉強のためにもチラシ配りをしてみたいと思い始め、そんな時友人が「代わろうか?」と交代してくれました。思っていたよりも、皆さん立ち止まって話を聞いてくれず少しショックでした。中には熱心に話を聞いて募金をしてくださる人もいたので勇気を出して話しかけて良かったと思います。小さいながらもしっかり歌うことが出来たのでよかったです。あっという間に一時間が過ぎてしまい、とても驚きました(3年生AK)
  • 福島の放射線について考えることや、現状を呼びかけていくことは大きな意味を成すと感じました。一人ひとりがどう動くか、どう感じるか、そしてどう行動を起こすか、きっかけを与えてくれるのが、「福島応援on Song」にはあると思いました。難病患者の被災者にとって大きな問題のヘルパーの人手不足。福島の現状を伝えていかなければいけないと感じています。(3年生YS)
  • 誰もが福島や被災地のために何かできることはないかと思っているはずです。そこに、募金という手段があるよ、と募金までの道筋をつくってくれて、町の人々も感謝しているからあんなに募金が集まったのではないかと思いました。私も被災地のために何かできることはないか、何かしてみたいと思っていました。募金は被災地支援の最も手軽な方法の1つだと思います。今までは「募金する」という手段でしか被災地支援ができませんでしたが、今回「募金を募る」という手段で支援ができたことが大変うれしかったです。(3年生MH)


震災と原発事故。将来を背負う若い人たちに、あまりにも重い課題を残してしまいました。学生達の言葉を頼もしく感じるとともに、それぞれの世代がみんなでこの問題に取り組まなければならないことを改めて感じます。若い人たちの声をこれからも定期的に伝えてゆきたいと思います。

7月11日チラシ②

~学んで改めて知る。そして考える~

さる6月4日に「そもそも放射能とは何か」をテーマに、原子力発電所の技術者でもあった「山田太郎」さんをお呼びして勉強会を開催しました。そこで語られたことは「放射能は人類が扱えるものではないとても危険なものである」という危険性の再認識でした。あまりのショックにその日だけでは参加者の意見はまとまりませんでしたが、後日まとめられた意見を以下に列挙します。


  • 「知らなければ、放射能の危険性はわからないことを実感」
  • 「現在の風潮として「現地に行くのが支援」になっているのではないか。」
  • 「被曝を気にする事で現地にいけないことがイコール見捨てる、切り離すという論点ではなく、これらを知った上でどう支援をしてゆくかを考えたい」
  • 「福島に限定しているようだけど、栃木県や群馬県だってとても線量が高い地域が出来上がってしまっている。東日本全体に放射能は散らばっている。」
  • 「子ども達は今も日光に林間学校で行っているけど大丈夫なのか。」
  • 「モニタリングポストで線量を計測しているが、地上から離れた高いところに設置されていて、子ども達の高さの値ではない。発表されているデータが正しいのか判らない。」
  • 「学生ボランティアは、学校や教員の責任の下、学生が自分の意思で決定してもらうしかない。判断するための情報や学習した結果を伝えてゆく必要がある」
  • 「高線量地域へ学生を行かせる事が放射能の容認ではないことをはっきりさせたい。」
  • 「最終的な到達点が「脱原発、原子力発電の廃止」であることを確認したい」
  • 「現地訪問だけでなく、山梨県白州町の山荘を活用したい。しかし、福島から来るとなるとかなり遠くなってしまう。東京都内に避難してきている人たちを対象に出来ないだろうか」



「知らぬが仏」で済まされるのか、都合の良いことだけ聞こえる「極楽耳」で良いのか、学ぶことの大切さを改めて思い知らされました。私たちも認識を新たにし、その上で何をしていけばいいかを考えてゆきます。勉強会は今後も開いていきますので、興味のある方は是非ご参加ください。

7月11日チラシ①

 他誌に掲載された今村栄治さん(いわき市)の報告です。昨年末に書かれたものですが、より多くの人に知ってもらうために、ご本人の許可を得てこのチラシに再掲させていただきました。(福島応援OnSong事務局)


~放射線という見えない銃弾が飛び交う町~

私は3.11以降、被災者・避難者支援活動にかかわってきた。2ヵ月後のことも予想できない流動的な情勢であるが、原発事故後の福島県の深層でいま何が起きているのか、以下報告する。

「帰還」に走り始めた行政

福島県における「復興」の掛け声は、岩手・宮城とは違った意味合いで用いられる。「さあ復興へ!」の前には「原発事故は収束した」が暗黙の了解として見え隠れする。また「風評被害の払拭」という言葉の裏側には、「大したこともなかった放射能問題に神経質になり過ぎている」という意味が張り付いている。

2011年秋に、福島県が組織した行政・一般公募の県民・研究者によるチェルノブイリ視察団が派遣された。そこで見た「原発事故で100の村が消えた」という事実は、彼らに衝撃を与えた。「避難が長期化すると、自分たちの町や村もこうなってしまう!」という恐怖の刷り込みがあったのだろう。帰国後、早期帰還の動きが始まっていった。

双葉郡の8町村のうち、南部の川内村と広野町が「避難指示解除準備区域」を解除され、町村民の帰還が「法律上」可能になった。今年9月には、これに南相馬市小高区も加わった。小高区は、福島第一原発から10数キロの距離であり、海岸線からは福島第一原発の煙突が見える。そんなところにも「立ち入って大丈夫」宣言がなされたのである。現在は、双葉郡8町村の内、福島第一原発に近い浪江・双葉・大熊・富岡町は「5年間は帰れない町」とされ、それ以外の楢葉町・広野町・川内・葛尾村は「早期帰還可能な町」と4対4に2分されつつある。「双葉郡はひとつ」の掛け声の陰では、このような亀裂が発生している。

早期帰還に走り始めた4町村で何が起きているのか。まっさきに早期帰還をぶち上げた広野町は、今年4月に役場機能をいわき市から広野町にもどした。そして9月には町立小中学校を現地で再開したのである。広野町当局は、年内に全町民の帰還を呼びかけたが、町民約5500名の内、帰還に応じたのは10%に過ぎない。避難中の広野町民に聞くと、「確かに線量は低くなったけれど、原発事故は進行中。また放射能漏れがあったらと思うと怖くて」「商店街も多くは閉まったまま。病院もひとつだけで、どう暮らしていくのか」と言う。

そして決定的なことは、戻ったら東電の賠償が打ち切られてしまう、ということだ。多くの町民は原発事故で失業している。農民は帰っても農業再開は絶望的な状況だ。それでどうやって生活していけばいいのか。東電の賠償金が唯一の収入というのが避難者の状態だ。給料が出続けている町長や町議会員、町役場職員との決定的な違いはここにある。

福島県は「2020年には避難者をゼロにする」との宣言を発した。放射能で高濃度に汚染された双葉郡を、いったいどんな魔法で人が住める町にするというのか。また県外に自主避難している県民に対し「放射能不安の解消をはかる」としている。「無用な心配をしている」との決めつけだ。放射能が人体に及ぼす影響は2~30年後にピークを迎える(子どもの甲状腺は数年)と言われている。この時間差を利用して「結局大したことなかった」論をまきちらす勢力が拡大していくことが危惧される。

「町の消滅」の危機感に囚われ、放射能汚染から目をそらそうとしている行政、賠償額を切り縮めたい東電、原発事故を小さく見せたい政府は、結託して双葉郡の町村民を早期帰還に追い立てている。一方、自分の健康と生活を考え、双葉郡の町村民はこれに「NO!」を突きつけた。ここに現
局面の矛盾が集約的に表現されている。

賠償金が生み出す「ねたみ」感情

国の避難指示によって、避難生活を送っている人には、現在東電がひとり一ヶ月10万円の賠償金を支払っている。これは、将来的に東電と被害者の間で、賠償額が合意するまでの仮払いである。一方これ以外の福島県民(東電は県南と会津地域を不当にも対象から外した)についてはひとり8万円、18歳以下の子どもと妊婦は40万円(自主避難者は60万円)を支払った。この賠償額の著しい格差が、福島県民に「ねたみ」感情を生じさせている。いわき市には、双葉郡から約23000人が避難してきている。その結果病院は混みあい、道路も渋滞している。また生活ゴミの排出量も増えている。このことと賠償額の格差が結びつき、避難者への誹謗中傷があちこちで聞かれるようになった。「今まで原発でいい思いをしてきたくせに」「賠償金でパチンコばかりしている」「何もしなくて4人家族で月40万円か。俺は汗水たらして働いても手取り15万円。いい気なもんだ」といった耳を覆いたくなるような話が聞こえてくる。不況に追い討ちをかけた震災と原発事故。生活に追われる人々にとって、原発事故避難者はストレスをぶつける対象になっている。被曝者同士が罵り合うというという悲しい現実。「絆」という言葉が虚しく響く。

国際人道支援をしているNGOのスタッフと、この話をすると「なんだかパレスチナ難民キャンプとレバノン人との関係に近いですね」と言われ、驚いた。そうかもしれない。私は最近原発事故避難者の支援を、難民キャンプ支援の枠組みで考えることも有効かな、と思い始めている。福島第一原発周辺は、放射線という「見えない銃弾」が飛び交う「紛争地帯」ととらえることができるかもしれない。ただ銃声が聞こえる範囲は、とてつもなく広い。東京でも、耳をすませば銃声が聞こえているはずなのだが。


2013年7月2日火曜日

勉強会振り返り

6月4日に行われた勉強会「そもそも放射能とは」は、改めて放射能の人体への影響が恐ろしいものであることを考えさせられるものでした。参加者もその日のうちには考えがまとまりませんでした

7月2日に勉強会の振り返りが行われたので、上がった意見をまとめてみました


知らなければ、放射能の危険性はわからないことを実感した。

確かに、あの講義を聴いて勉強してみると、福島に若い人を連れてはいけないと思う。(中高年である)私たちなら、もう問題はないんだけど。

合唱団では若い人を現地に行かせるかどうかで大議論になってしまっている。どちらも正しいんだけど、風潮に流されてしまう意見もあり、それも仕方がないことではあるが、とても歯がゆく感じる。

専門家としては、ああいう意見(「僕は行かない」)になるのだと思う。

現在の風潮として「現地に行くのが支援」になっているのではないか。

被曝を気にする事で現地にいけないことがイコール見捨てる、切り離すという論点ではなく、これらを知った上でどう支援をしてゆくかを考えたい

福島に限定しているようだけど、栃木県や群馬県だってとても線量が高い地域が出来上がってしまっている。東日本全体に放射能は散らばっている。

子ども達は今も日光に林間学校で行っているけど大丈夫なのか。

栃木県矢板に放射性廃棄物の最終処分場を作る計画がいきなり知らされて反対運動もはじまったけど、きっと役人は判っていてそういうことをするんだと思う。

モニタリングポストで線量を計測しているが、地上から離れた高いところに設置されていて、子ども達の高さの値ではない。ここからも発表されているデータが正しいのか判らなくなっている。

何が正しいかを自分たちで判断しなければならないことは良くわかったが、情報が全くない。マスコミはあてにならないことを実感する。

最終的な到達点が「脱原発、原子力発電の廃止」であることを確認したい

学生については、学校や教員の責任の下、学生が自分の意思で決定してもらうしかない。判断するための情報や学習した結果などはこちらからも伝えてゆく

高線量地域へ学生を行かせる事が放射能の容認ではないことをはっきりさせたい。

2013年6月11日火曜日

6月11日活動報告

梅雨空の下、時々雨にも見舞われましたが6月11日(木)は沢山の参加者が集まりました。

東京家政大学のゼミより13人、白梅大学のグループ3人の学生さんが、
そして札幌へ移住された佐川さんグループも日帰りで駆けつけてくださいました。

同行された中手聖一さんが「福島県内に留まった人にも、県内で避難した人にも、県外に避難した人にも、同様の支援の手が必要なのです」と訴えました。

また、街頭活動中に「俺も福島に行こうと思っている。詳しいことを教えてほしい」というボランティアの申し出がありました。いよいよ活動の幅が広がってきています

6月11日チラシ②

~そこまで手が回らない?~

先日他県の男性から「ホームページを見たんですが、福島の介護の担い手が足りないんですか?」との問い合わせがありました。

いわきの状況をお伝えしたところ「実は、被災地で働いてみようと思うんです」とのこと!
しかし「福島に移住するにあたって、何か補助とかは出ないんでしょうか?アパートを借りるにしても、家賃の心配もあるし」との話でした。
ILセンターに問い合わせたところ、やはり公的な補助はないということです。男性にはILセンターの連絡先をお伝えしました。
復興、支援に必要な補助とは何かを考えさせられます。

6月11日チラシ①

~学ぶ機会をつくってゆく~

2013年6月4日(火)、福島応援OnSong勉強会を府中市住吉文化センター講堂にて開催しました。

今回は原発紙芝居「小さなせかいのおはなし」の作者、山田太郎さんを招いて放射能について基礎的な知識を学びました。

多数の参加があり、それぞれの立場から放射能の扱いにくさと危険性を感じ、しかもそれが全く知らされていないこと、学ぶことが必要なことが発言されました。

福島の高線量地域は原子力発電所などの一般的な「放射線管理区域」よりも放射線量が上との事です。しかもモニタリングポストで測定される放射線量は、除染後の数値であることが多い。そこに今も人が住んでいるのです。

若い人の内部被曝による影響が懸念されているにもかかわらずにです。この状況は、これからの私たちの応援、支援をするにあたって議論を深めてゆかねばならないことです。

震災、事故から2年が経過しました。いよいよ風化が始まっています。
放って置けば、水に流せば、あとは野となれ山となれ。それでいいのか。
その間にいったいどれだけの悲しみが生まれ、どれだけの禍根を残してしまうのか。
私たちの生き方も問われています。学ぶこと、忘れないことが必要なのではないでしょうか。

2013年5月11日土曜日

5月11日 活動レポート

5月11日(土)は土曜日ということもあって、「若い人に何かアピールできるものを」と力を入れていましたが、何と無情の雨!。「15分くらいやってみて、雨がひどいようなら止めましょう」と集まったメンバーは話していましたが、始まってみれば、5月9日のいわき市訪問をみなさまにお伝えしたい気持ち、そして駆けつけてくれたゲスト「エスブラッド」のお二人の熱気にいつの間にか1時間がすぎていました。
「福島応援onsong」~5月11日プログラム~ ①歌(春の歌)とあいさつ ②福島県いわき市報告 ③ゲスト公演④福島県いわき市報告その2 ⑤歌と閉会のあいさつ  司会:米谷俊介 音楽:上村明子 ゲスト「エスブラッド」 三多摩青年合唱団有志  次回は6月11日(火) 佐川さんチームが札幌からいらっしゃるほか、東京家政大学田中ゼミも合流予定です(事務局)

6月4日勉強会のお知らせ

勉強会のお知らせ


いわき市を訪れて感じた事、そしてILセンターの長谷川さんもおっしゃっていましたが、放射線量はそれほど高くはありません。
また流通する食品も「福島県内では全品検査をしてますし、検出されたらその店には誰も行かなくなるので店側もそれこそ必死です。むしろ、東京で流通しているモノのほうが心配かもしれない(注:放射能は福島県だけでなく東日本全域に降っています)」とのことです。

しかし、いわき市からですら7800人が他県へ自主避難をしており、
長谷川さんも「山のほうは線量高いし、双葉のほうに行けば一気に20倍とか30倍とか出ちゃう。基準になる数値を設定して、積算線量計を見ながら、リスク覚悟のボランティア活動になる」といわれています。

福島応援OnSongは介護ボランティアを送ることを計画していますが、安全を確保し、その中で出来ることを考えて行く必要があります。

放射能について学んで、何ができるかを考える必要があるといえます。

そこで、勉強会を開催いたします。お問い合わせ、お申し込みは事務局まで。

福島応援OnSong勉強会「山田太郎氏(「原発紙芝居」作者)を招いて」
日時:平成25年6月4日(火) 18:00から
場所:住吉文化センター講堂 費用:500円

5月11日チラシ③

~「北の旅人」が聞きたい~

いわき訪問のもうひとつの目的、国立いわき病院に入院しているALS患者のお見舞いに行ったときの事です。

前回訪れた時、呼吸器を装着したばかりで悲嘆にくれていたSさんが私たちの急な訪問にも関わらず笑顔で迎えてくださいました。
落ち着いてはきているものの自宅に戻ることは出来ないとのことでしたが、福島応援OnSongで歌の応援をしていて、何かリクエストはありませんかとたずねたところ、文字盤で即座に「(きたのたびびと)!」と応えてくださいました。
ご家族によると「カラオケが好きだったからねえ。いつも歌っていたんですよ!」「(ゆうじろうの!)」「そうそう、石原裕次郎ね」。病室に和やかな空気が流れました。

また、ILセンターいわきでも「鐘のなる丘」を歌ってくることが出来ました。介護ヘルパー派遣のほか、歌を届けに、福島応援OnSongはこれからも福島を訪れてゆきたいと思います。

5月11日チラシ②

~難病患者が被災するということ~


介護の必要な人はどうしてもベッドが必要です。しかし、避難所はベッドがありませんでした。
トイレもバリアフリーではなく「トイレの心配から水を我慢して2週間の避難所生活を過ごした」との話がありました。

また、福島第一原発の水素爆発のあった3月16日はヘルパーも医者もいなくなってしまい連絡すらなかったケースがあったこと、そしてその中で家族すらいなくなり「置き去り」になっていたケースがあったとのことです。

自宅に戻ったとしても、暮らしを支えてくれるヘルパーがまったく足りません。「求人を出しても施設には来るんですが、ヘルパーには全く来ない。手が打てない。もう展望がもてない。
自宅療養でヘルパーがいなくなったら病院に戻るしかないが、受け皿になる病院のあるいわき地域はまだいいんです。どこでも面倒を見られなくなった地域では家族が全て負担しているところがある。」

そして、状況はすぐに好転するわけでは有りません。
「東京はまだいいですよ。介護の仕事を志す若者が集まってくる。それこそね、ヘルパーを小学生、中学生の頃から育成していかなければならないんじゃないか。なりたい職業のベスト5に入るくらいの知名度にしなきゃ」。
前出のILセンター長谷川さんが嘆きます。なり手が無く、ただでさえ少ないヘルパーも震災によっていなくなってしまう中、病院にもいけなくなり取り残される患者と家族がそこあります。東日本大震災の後、各自治体で防災会議が持たれていますが、ぜひともこの現状を学ぶ必要があると感じます。

5月11日チラシ①

~被災者の苦難は全く終わっていない~ 
2013年5月8日。福島応援OnSong有志で福島県いわき市にあるIL(自立生活)センターいわきを訪問し、いわき市の現状と何が求められているかを伺ってきました。

いわき市は33万人の人口を抱え、面積の広大な町です。「センターの利用者さんを送迎するのに片道30kmですよ」とで迎えてくれたILセンターの担当者が笑います。
ILセンターの周囲には仮設住宅がたくさん立ち並んでいました。主に双葉郡から、あわせて24000人が避難してきているとのことです。

33万人の地方都市に24000人が来ることで、医療や介護は供給不足となり市民と避難者の対立のタネになりかねない状況がつづいています。避難者は立ち入り制限が解除されても戻る人は一割程度とのことです。
背景として線量が低くなっていても原発の事故が収束せず「いつ、『また』があるかもしれない」不安があること、そして戻っても商店や病院など生活するための資源が乏しいこと(救急車を呼んでも2時間かかる)、高齢だったり体力が無かったりして戻れない人、そして賠償金も「財物補償ですから、ローンの残っている家はローンでお金が消えてしまう。古い家は補償金が低い。もらった全額が残ることはないし、残った金がたとえば200万あったとして新しい家が建てられますか?所得補償は低すぎます」。

また東京電力の慰謝料は避難が解除されれば出なくなりますが、その慰謝料が元となり福島県民同士がいがみ合う構造も徐々に現れてきているとのことです。

たくさん立ち並んだ仮設住宅にしかし、人影はまばらでした。「みんな引きこもっているみたいでね。お年寄りなんかそれで更に足腰が弱くなっちゃうし。」ふるさとを奪われ、いつ帰る事が出来るかもみえないまま、摩擦を避け閉じこもっている日々。

「震災から1年くらいは、全国から支援が届いたり、イベントをたくさんやったんだけど、徐々に人も減ってきてね、もういいかな、ってやらなくなった。」しかし、現在も避難者の苦難は全く終わっていません。

2013年4月11日木曜日

4月11日チラシ④



~それでもみんなが集まれば、何かできる~ 

福島県からの避難者は増えています。
東京にも8000人近くの避難者が暮らしています。
元の暮らしから離れ、帰れるかどうかわからない状況の中で暮らす不安や、
新しい暮らしを立て直す負担の中、
さらに「福島から来た」ことがマイナスになると口をつぐむ人すらいると聞きます。

みなさん、よろしければご一緒しましょう。私たちは歌います
「一人の小さな声、何も言えないけど それでもみんなの声が集まれば 何か言える」。

4月11日チラシ③

 ~学ぶ機会をつくる~
未曾有の大震災と原発事故による未知の核汚染といいます。
しかし、復興が遅々として進まないのはそれが理由 でしょうか。
私たちは過去に核爆弾を2回経験し、企業活動から出た汚染が人々の暮らしを壊す公害を経験し、阪神淡路大震災や中越地震を経験してきました。

 事実に基づいたデータがあり、知識を得てきたはずです。
それを知恵として活かすことができるはずです。

そこに希望があるはずですが、同時に人は低きに流れることも感じます。

ついつい「今」が当たり前になり「次の日からスマホが使えなくなるんでしょ。だから原発が要る」と若い人が話します。そうしてきた今までの暮らしがあります。また、それをよしとする向きも大きくあり、原発の再稼動どころか新設を唱える政治家が出ています。

しかし、今の暮らしが大切ならばそれを続けるために何が必要なのか学ばなければならない。それは私たち全員です。玉磨かざれば光なし、人学ばざれば道を知らず。古い古い言葉ですが、きっと昔からその繰り返しだったのです。

福島応援OnSongでは、今後みんなで学ぶ機会を作ってゆこうと思います。5月中旬に第一回目を企画しています。参加は自由ですので興味のある方はご連絡ください。
また、5月1日にちょっとした会合を開きます。よろしければご一緒しませんか?

4月11日 チラシ ②

~福島の難病患者との交流を通じて~

「ボランティアがいれば、患者さんも病院生活が楽しくなるのではないでしょうか。震災があったいわき病院では尚更です。震災でまだ余震が続く中の生活は心細いと思います。少しでも安心できる環境が必要です。ボランティアが終わってから患者さんに「ありがとう」という言葉をかけてもらい、嬉しかったです。」

昨年12月、難病患者との交流企画「文字盤キャラバン」で福島を訪れた学生ボランティアがまとめてくれたことばです。福島から「障がい者が社会でどのように生活しているかは、社会のバロメータである。復興は叫ばれていても、本当の意味の復興は・・・」という声が届いていますが、私たちのできる会話、こころのふれあいが、誰かを支える小さな力になってほしいと願います。

そして若い学生たちが感じ取った気持ち、学びの中に、私たちの未来があるように思えます。
今後とも毎月一回、少人数での訪問を企画しています。また、10月に大きなグループでの福島訪問を考えています。

4月11日 チラシ ①

2月11日に行った活動報告で公演していただいたジャーナリスト、伊藤千尋さんの本からの抜粋です。 軍政下のチリを伊藤さんが取材した時の話だそうです。

夜になると外出禁止令が出ました。しょうがなくホテルにいますと、午後9時になって、外から音が響いてきました。窓を開けるとカン、カンという音があちこちから聞こえてくる。 チリ特有の主婦の「ナベたたき」です。主婦が、今の政府には反対していることを、台所のナベをたたくことで示すんです。 信念を持つ人は窓を大きく開けてガンガンとたたき、目立ちたくない人は窓をこそっと開けて小さくカンカンとたたいていました。  首都サンティアゴは石畳で石造りの町並みですが、その甲高い音が石に響いて騒然とするんです。 政府に不満を持っているのは自分だけではないのだよということが、あちこちからの音を聞くことでわかるわけです。  デモや集会に行くだけが反政府行動ではない。逮捕されるのが怖ければ自分にできる方法でやればいい。 大切なのは、心の中だけで思っているだけではなく、一人一人が行動で示すことなのだ、ということを軍政下のチリの人々は身をもって示していました。 (「活憲の時代 コスタリカから9条へ」p29,30 伊藤千尋) 


私たちは歌に乗せて福島を応援しています。
歌は誰もが楽しむことができて、誰もが口ずさめるからです。

 そして、歌を口ずさんだ時、ふと福島に思い至ることがあれば、まずはそれで良いと考えます。

 そこからが始まりになります。

私たちにできる応援と、私たちにできるアピールで、これからも続けてゆきます。
 よろしければご一緒しませんか

2013年3月11日月曜日

3月11日 チラシ①

~忘れない。見捨てない。~ 
私たちは歌と言葉で福島を応援してきました。
それは震災以降、何かをせずにはいられなかった思いと、
福島の人々の「忘れないで下さい。見捨てないで下さい。」という言葉に応えたかったからです。

 2013年2月11日はいつもの場所での活動を離れ、
府中の森芸術劇場「平成の間」にてこれまでの活動を報告する会を設けました。

定員を超す315名の参加があり、
この活動への関心の高さや福島から離れていても「何かをしたい」という気持ちをたくさんの人が持っていることを改めて確かめ合うことが出来ました。

未曾有の大震災、そして誰も経験したことの無い大規模な核汚染。
復興が叫ばれていても、ふるさとを追われた人々は10万人を超え、その多くは元の暮らしに戻る道筋すら見えない状況にいます。
ふるさとを離れた人々、離れざるを得ない人々。とどまる人々、とどまらざるを得ない人々。

あの震災の始まった日から2年が経ちました。時は流れてゆきます。

記憶も薄れ、思いも薄れてゆきます。しかし、苦しみは、悲しみは消えていません。
まだ2年しか経っていないのです。
にもかかわらず、「忘れないで」と言われているのは、どこかにこの悲しみを捨て去ろう、忘れてしまおう、無かったことにしようとする人の心が見え隠れするからではないでしょうか。

放射能が過小評価され、基準値をもっと緩和しろという声が上がっています。

原発の再稼動、新設までが権力者の口から出ています。

私たちは歌と言葉で福島を応援して行きます。忘れないために、見捨てないために。

3月11日 チラシ ②

文字盤キャラバン報告~学生たちの報告から~
2012年12月26日から27日の2日間「文字盤キャラバン」が福島県いわき市にある国立いわき病院を訪れました。文字盤(身体を動かせない、言葉を発せない難病患者が、視線でコミュニケーションを行うための道具)を通じ、人と繋がれる喜びを患者や支援者が再獲得してゆくための試みです。 ALS患者とそのチーム、学生ボランティア合わせて24人の大所帯でしたが佐川さん達と病院スタッフの尽力で交流を図る事ができました。

<福島出身の学生から>
  • 県内住民の軋轢は度々感じることがありました・(避難した人の)避難後の対応によって、避難したくてもできない人たちには中々に好意的になれないようでした。本当は仲が良かった人同士が疎遠になっていく事は悲しい事だと思います。
  • 水蒸気爆発後の放射能の広がり方を地図で見ると、実家の福島市はもちろん、関東地方にもかなりの範囲で広がっていたため東北だけでなく東日本全体の問題だと改めて感じました

 <実際に訪れた先で>
  • 病院の横の住宅街が基礎だけになっている様子や、病院へ津波が来た時の写真を見せてもらって実感する事ができた
  • 津波で建物が浸水し、入院している患者さんも他の病院へ一時的に避難し、他の地域と変わらず震災による影響を受けていたことが分かりました

<難病患者さんと文字盤を使った交流にて>
  •  「慣れなくて下手ですいません。疲れちゃいましたよね」というとやさしく笑って首を横に振ってくださり何度もお話させてくださいました。
  •   文字盤を通してお話させていただいたIさんの笑顔や院内を御一緒に軽く散歩させて頂いただけなのに最後に泣いてくださった方がいて、本当に短い時間ではあったけれど、こうした機会は充分患者さんにとってプラスの刺激になるのではと感じました。看護士の皆さんとのミーティングの中で「Iさんは実は本当に気難しい方で、そんなIさんが震災以来初めて外に出たのです」と言うお話を聞いたとき、涙が出ました ・ 智惠子抄の歌を何度も歌ってと仰っていたので、節子さんと歌うと、口を動かし一緒に歌ってくださいました。そのときの患者さんの顔がとても嬉しそうで涙ぐんでいて、「こんなに喜んでもらえたんだ」と思うと私まで嬉しくなりました
  •  「普段はこんなに食事なさらないし自分で食べないのだけれど、今日は良く食べていているし自分で食べていて、患者さんにとってもいい刺激になっているのかもね。」その言葉を聴くまでは、私は患者さんの役に立てているとは思っていなかったので、会話をするだけでも患者さんにとっては凄く大切な事なんだという事を感じました。
「ボランティアがいれば、患者さんも病院生活が楽しくなるのではないでしょうか。震災があったいわき病院では尚更です。震災でまだ余震が続く中の生活は心細いと思います。少しでも安心できる環境が必要です。ボランティアが終わってから患者さんに「ありがとう」という言葉をかけてもらい、嬉しかったです。」と、まとめてくれた学生もいました。

私たちも同じ思いです。
福島から「障がい者が社会でどのように生活しているかは、社会のバロメータである。復興は叫ばれていても、本当の意味の復興は・・・」という声が届いていますが、私たちのできる会話、こころのふれあいが、誰かを支える小さな力になってほしいと願います。
そして若い学生たちが感じ取った気持ち、学びの中に、私たちの未来があるように思えます。福島応援OnSongは文字盤キャラバンをサポートします。

2013年3月8日金曜日

伊藤さんラジオ出演

2月11日の活動報告で講演をお願いした伊藤千尋さんの最新情報です
事務所から連絡がありました

<伊藤千尋さん、ラジオ出演>
> 急きょ、今日8日(金)22:45~23:15(予定)、TBSラジオに出演することになりました。
>
> 今日は夜、京都で「3・8国際女性デー京都集会」で講演することになっているので、
> それが終わってから、電話で出演します。
>
> テレビも含め、スタジオ出演は何回も経験があるのですが、
> 今回は電話がうまく繋がるかがちょっと不安ですが、
> 伊藤さんの明解なお話が聴けると思います。
>
> 5日(現地時間)に亡くなったベネズエラのチャベス大統領について話します。
>
> もしそちらで放送がなかったり、ラジオがなくても、パソコンをお持ちでしたら
> 全国どこでも(世界中!)インターネットで生放送が聴けるそうです。
>
> 10時から「Dig」というニュース番組の放送が始まります。
> まず、以下のサイト「TBSラジオDig」を開いてください。
>  http://www.tbsradio.jp/dig/index.html
>
> 次に、そのページの左側上のほうにある「生放送を聴く」をクリックしてください。
> そうすると自動的に放送が聴けます。

2013年2月13日水曜日

2月11日活動報告①

福島応援OnSongは屋内での活動報告会を行いました。歌は三多摩青年合唱団におまかせし
今までの活動の報告と、福島からのアピール、そして伊藤千尋さんの講演の
盛りだくさんの内容でした。

「福島応援OnSong活動報告会」
2013年2月11日(月・祝)13:00~16:30
府中の森芸術劇場「平成の間」にて
主催:福島応援OnSong
後援:NPO法人わの会
協賛:(有)キョウエイライフ、肉はしうら、くるる、理容フクイ、中央在宅マッサージ、フォーリス、介護センターはんの木、 訪問看護ほっとステーション、荒馬座、ハウスビルダー森下建築、美容室ライオンズ、食品卸(株)つちや、高野養鶏場、居酒屋Dan、(株)ふじ花園、福祉介護送迎サービスあけぼの、Cafeコットン畑(順不同、敬称略)、

①活動報告
 1)今までの活動
 2)原発紙芝居
 3)福島からの声
 4)募金箱の声
 5)福島支援報告

②三多摩青年合唱団
「春へのあこがれ」
「箱根八里」
「ゴンドラの唄」
「待ちぼうけ」
「放射能」
「許せるか あなたは」
「よみがえれ 我が大地」
「わたしがたねを」

③伊藤千尋講演
「私たちの希望、私たちにできること」

 スタッフ、出演者含め予定していた入場者数の300人を超える来場がありました
上の写真は合唱団のリハーサル風景ですが、この席が全部埋まりました!
 伊藤千尋さんのサイン会も盛況でした

ありがとうございます!


2013年2月4日月曜日

読売新聞の記事になりました

2013年2月3日の読売新聞に私たちの活動が紹介されました!
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyotama/news/20130202-OYT8T01202.htm

残念ながら2月11日の活動紹介が載っていないのでここであらためて紹介しておきます

福島応援OnSong活動報告会
合唱と講演~伊藤千尋さんを招いて~

日時:2013年2月11日 13:00~(開場12:30)
場所:府中の森芸術劇場「平成の間」
費用:500円

もちろん、これからも毎月11日の14:00から府中フォーリス前にて活動予定です
よろしくお願い致します


2013年1月29日火曜日

2013年1月24日木曜日

【業務連絡】

チラシの内容がmacでは開けない不具合があるようです
おそらくWindowsのWordで作成した本文をそのままCut&Pasteしているため
フォントの指定の不具合(特にmac版MicrosoftOfficeをインストールしている場合)がおきていると思われます

順次プレーンテキストに切り替えます。
ご不便をおかけします


2013年1月23日水曜日

2月11日活動報告のお知らせ

来る2月11日は、フォーリス前ではなく府中の森芸術劇場「平成の間」にて
これまでの活動の報告と三多摩青年合唱団による合唱

そして

ジャーナリスト伊藤千尋さんによる講演「私たちの希望、私たちにできること」を開催します

https://sites.google.com/site/fukuonsong/home/2012211

福島応援 OnSong活動報告
合唱と講演~伊藤千尋さんを招いて~
日時:2013年2月11日(月・祝) 13:00~(開場12:30)
場所:府中の森芸術劇場「平成の間」
費用:500円

2013年1月12日土曜日

2013年1月11日活動報告


福島応援onsong活動報告
2013年1月11日(金)
14:00~15:00 天候:晴れ

~2013年1月11日プログラム~
①歌(冬の歌、初春の歌)とあいさつ
②福島の声、文字盤キャラバン報告
③2月公演のおしらせ、福島の声
⑤歌(三多摩青年合唱団有志)
つぶてソングより「放射能」「許せるかあなたは」「あなたはどこに」
⑥福島の声(渡辺さん)
⑦歌(ふるさと)と閉会のあいさつ

参加者
佐々木チーム4名、佐川チーム4名、スタッフ2名、三多摩青年合唱団5名、一般参加6名
そして沢山の皆様から声をかけていただきました

取材 森の映画社、読売新聞、NHKより取材がありました

原発紙芝居が上演できなかったのが残念
福島の生の声(渡辺さん)がとても良かった
との感想が聞かれています

反省会にて
合唱団として何か役に立てることを、と「つぶてソング」から始めてみました
佐々木さんに引っ張られて、空しさやダメになりそうな自分を乗り越えて「何とかしなきゃ」という気持ちを、今の世の中に対する責任を果たすためにも歌っています!
継続こそ力なり

募金:27670円が集まりました。ありがとうございます

2月11日は府中の森芸術劇場「平成の間」での活動報告と合唱、講演です。
しかま@事務局

2013年1月11日金曜日

1月11日チラシ③


千代紙運動

昨年1月より私たちは全国からの応援メッセージを書いた色紙を福島に送ってきました。その数は267枚、携わった人は1000人を越えます。その一部はインターネット上で見ることが出来ます(福島応援OnSongで検索してみてください)。そして今、新たに千代紙による言葉の応援を展開します。千代紙にひと言、皆さんのお気持ちを書いてください。いつでも、どこでも、簡単に出来る応援です。

原発紙芝居

長い間原子力発電所の技術者として働いてきた「山田太郎」さんが、原子力発電とは何かを世に問う紙芝居を描かれました。福島応援OnSongでは屋外活動においてこの紙芝居を毎回発表しています。人の身体を作り上げる“設計図”は放射線によって壊されてしまう事、壊れた設計図は元に戻らないこと、それが元で“治らない病気”になってしまうことがとても分かりやすく描かれています。この紙芝居は実は原発事故の起こる前に発表されたものでもあります。

活動報告のおしらせ

<福島応援OnSong活動報告
 合唱と講演~伊藤千尋さんを迎えて~>
日時:2013年2月11日(月・祝)13:00~
場所:府中市芸術の森劇場「平成の間」
費用:500円  定員:300名

1月11日チラシ②


文字盤キャラバン報告

12月26日、27日に福島応援のひとつの形として、私たちは総勢28人の「文字盤キャラバン(身体を動かせない、言葉を発せない難病患者が、視線でコミュニケーションを行うための道具=文字盤を通じ、人と繋がれる喜びを患者や支援者が再獲得してゆくための支援)」を福島に送り、福島県で療養している難病患者と学生の交流を図ってきました。学生として参加された芳賀さんのレポートです(芳賀さんも福島県出身です)。

「現地の方から直接お話を伺えたことはとっても貴重でした。県内住民の軋轢は度々感じることがありましたが、双葉周辺が住居可能では無くなった以上、避難住民と昔からの住民を繋げる活動が必要になるかと思います。放射能の問題は立ち入り禁止区域に近づけば近づくほど話しづらい問題なのかもしれません。(病院では)佐々木さんからのメールにあります「地震以来病院の外に初めて出た」という方と一緒に過ごさせていだきました。衝撃的だったのは、避難先の病院からこちらに戻ってきたいという気持ちはあるか伺った際に、力強くまばたきをYESと示されて、同じ福島県人だからでしょうか、なんだか泣きそうでした。散歩のあと、そのまま病院2階に行き、一緒に窓から海を眺めました。ここから初日の出が美しく見れるのだと、看護師さんわざわざ見せてくださったんです。病院の周りには家の基礎しか残っていません。2階からみな沈黙し、青空と青い海を眺めていました。」

佐々木公一さんのレポートです

「・・・東京から学生がきてくれると広く伝わっており、イルミネーションもつけてくれ病院(国立いわき病院)を上げての暖かさが伝わる。学生たち(東京家政大学、都立府中看護学校、国立看護大学校、ルーテル大学)は必死に文字盤(前日の約3時間の特訓を生かして)で会話していた。「別れ際に大泣きされて感動」「みなさんのおかげで地震以来病院の外に出たといわれ感激」興奮して語る学生たち・・・あとがき 私たちの福島応援もやや軌道に。福島応援は世界平和と同義語(佐々木公一 週刊ALS患者のひとりごと第287号より)」

1月11日チラシ①


福島応援は世界平和と同義語


【再録】~福島からの声~

2012年9月のチラシに載せた記事からの抜粋です。
・・・佐川さんは福島市在住で難病ALS患者でもあります。病院から離れ福島市内の自宅で暮らしていますが、そのためには24時間の介護体制が必要です。福島応援onsongの活動にはいつも介護チームで参加されています。佐川さんは伝えます「放射能が福島県を覆い草花の成長まで脅かしております。私は、大好きな自然観賞をまったくしなくなったのです。室内は線量が低いので、こもらざるを得ない現状です。理由は、介護者の健康被曝を避ける。ALS患者本人も自分の被曝を避けたい。福島県民は、火の中を転げまわるような苦しみです。」。佐川さんチームの一員佐藤さんも「こちらは大変なんだけど(特に放射線量の高い地域に)、手伝いに来てくれとも悪くて言えない感じなんですよ。」と複雑な胸中を語っています。「除染が始まってねえ、佐川さんちの周りにも来たんだけれど、何をするのかといえば高圧洗浄機でブシューッってやるの。除染ていうか、セシウムを散らしているだけみたい。作業している人たちはマスクとか暑くて付けてられないみたいだけど、大丈夫なのかな」「流した水はどこへ行くんでしょうかねえ。」と心配されています・・・(福島応援OnSong2012年9月11日活動チラシ)。
明けて今年1月4日の新聞には次のような記事が載りました

「手抜き除染」横行 回収した土、川に投棄
 【青木美希、鬼原民幸】東京電力福島第一原発周辺の除染作業で、取り除いた土や枝葉、洗浄に使った水の一部を現場周辺の川などに捨てる「手抜き除染」が横行していることが、朝日新聞の取材でわかった。(2013年1月4日)

この時間差は何を表しているのでしょうか。そして、12月の選挙により発足した新しい政権は原発の再稼動と新設を公言しています。あたかも、原発事故によって苦しんでいる人々は無かったかのようです。佐川さん達は訴えます「福島を忘れないで下さい、福島を見捨てないで下さい」。