福島応援

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みんなで集まってにっこりわらって

2013年9月11日水曜日

9月11日活動報告

今回はキーボードの上村さんが欠席で、ギターと歌で盛り上がりました。
パネル展示も好評でしたよ!

沢山の募金も集まりました。
みなさま、ありがとうございます







9月11日チラシ②

~若い人たちの声・3~

前回6月11日の街頭活動では学生達がボランティア参加をしてくれました。街角で自分たちの意見を人々にアピールすることが初めてという学生も多く、とても良い経験、勉強になったようです。学生達の感想をまとめてみました。



震災がどれだけ障害者の方たちを苦しめてきたのか、また人の命と原発はどちらが大切なのか、改めて全ての人々に問い掛けなければならないと思いました。言葉だけでは伝わりにくい部分は確かにあると思います。歌で投げかければ誰もが聞いてくれる、楽しむことができる、またコミュニケーションの場が広まっていくと感じます。福島の方たちは地震だけでなく放射能の恐怖ともたたかっていたのだと「つぶてソング」の歌詞を読んで感じました。募金活動で思ったことはまだまだ原発の恐ろしさを知らない人たちが多いということです。活動をいっさい見ずに通り過ぎる人たちが何人もいました。「私たちには関係ない」という今が当たり前になっているところを直していかなければならないと強く思います。それと反対に、活動を見てくれる、歌を聴いてくれる人たちが多くいて、とても嬉しい気持ちになりました。みんなで協力し、支えあえばきっと何か成功しますし、希望になります(3年生MO)

東日本大震災から2年が経ち、以前よりも現地の状況があまり伝わることが少なくなっている気がしますが、それでも今回の活動に協力してくださる人の数から、忘れてはならないと思う方が多くいることが分かり、このような活動の大切さがわかった気がしました。
ヘルパーが足りないということは、介護が必要な方々が生きていくことが難しいということで、それはとても大きな問題だと思いました。表面的には出てこない、そのような現状があるということをきちんと知り、考えていかなければならない。(3年生NM)

将来を背負う若い人たちに、私たちはあまりにも重い課題を残してしまいました。学生達の言葉を頼もしく感じるとともに、それぞれの世代がみんなでこの問題に取り組む必要を改めて感じます。

9月11日チラシ①

~福島と広島が被る~

学生時代を広島で過ごした米谷さんからの寄稿です

先日オリンピックの東京開催が決定した。
連日マスコミが日本中が歓喜に大喜びしている様子が報道されているが、見るたびに心が冷えていく。汚染水の問題を住民の環境や漁民の生活の心配ではなくオリンピックが招致できないと言う本末転倒の心配になっている。首相が「安全です。安全です。」と唱えるたびに「そんなに安全なら福島でオリンピックをやればいい。」と言った福島の人もいた。

私は40年前広島で学生時代を過ごした。終戦から30年経っていが、私の周りにはまだ多くの被爆者が苦しんでいた。毎年夏になると原水禁や原水協が年に一回だけやってきて、かき混ぜて帰っていく。それを地元の人たちは冷めた目で見ていた。

今回そのときの冷めた気持ちを思い出した。

大学の前には通称原爆病院と呼ばれる病院があり、重度の原爆症といわれる症状の患者が多く入院していた。今のように介護制度もないから、外へ出ることも出来ず病院の中でこもったまま生を終えていった。病院にもいけず、自宅でのたうちながら、あまりの苦しさに耐え切れずに自らの生を断ち切った人もいた。彼(彼女)らは被爆者手帳をもらえず高額な医療費も払えなかった人たちだ。

まだ20歳前後の私は色んな感情が入り乱れながらそれらを複雑な思いで見ていた。

私が大学生活を送っていた昭和50年代の広島は、はだしのゲンがむさぼり読まれ、平和教育と言う事で学校の先生たちが核兵器の事を教えていた。そんな環境の中で出会った二人を私は思い出す。一人はバイト先の工場の社長で、ご夫婦ともに被爆された方だった。私とであった頃は大きな症状も出ることなく過ごされていた。彼は被爆をしたと言う事以外は工場は順調で家族も子ども三人孫六人、とても中の良い家族だった。そしてとても幸せだった。その彼が怒りをあらわに語ったことがある。

「俺たちだって泣きたい事もあれば笑いたい事もある。でも被爆者が能天気に笑っていると批判されるんだ。俺たちはいつも眉間にしわを寄せて深刻そうな顔をしておかんといけん、みたいにな。特に政治家やマスコミが大勢集まる8月6日にはな」

被爆した人々はいつ髪の毛がごそっと抜けるのか、いつ歯ぐきから血が出て止まらなくなるのか、いつ身体中がだるくて朝起きられなくなるのか、そういった恐怖と戦いながら生きている。そんな中で社長が望んでいるのはみんなと笑ったり、怒ったり、泣いたり、ありのままの自分でいられる幸せ。いつ発病するかわからないから、今を存分に楽しみたい。政治に利用されて堪るかという怒りだった。ちなみに彼の工場も家族もとても明るく楽しい。

 もう一人は被爆二世と呼ばれ、自身は健康で症状は出ていない人だったが先の社長と対照的な私の先輩の話だ。一年上の彼女は特別親しいわけでもない私にある日話しかけてきた。「私は被爆二世なの。だから結婚も就職も出来ないの。」この突然の告白に青二才の私はどう返して良いのか判らずただ聞いていた。彼女は健康で聡明で美人だった。発病もせずに、はつらつと生きられるはずだった。しかし、放射能がまるで移されるかのごとく扱われ、彼女の周りには友人がいなかった。彼氏候補が多数いてもおかしくないくらいの美人だったが孤独だった。

結婚はあきらめても就職をと思っていたところにそれもダメと言う偏見をぶつけられたらしい。明日を閉ざされた彼女の闇は私に愚痴をぶちまけたぐらいでは晴れない。半年後彼女は大学に来なくなった。そして苦界に身をおいているという話が入ってきた。一年後彼女はビルの屋上から身を投じた。身体は健康なのに心が蝕まれた。偏見と差別によって。

これらの話は原爆が投下されてから30年後のことだ。福島は当時の広島ほど放射能が強くないにせよ、30年間被爆し続けると第二、第三の彼女が出てくるかもしれない。
放射能は臭いもなく見えもせず痛くもない。全く存在を感じさせぬ忍者のようなものだ。その中に人間が無防備に入って行き被爆してしまう。原爆病とよばれる症状になっている方のかなりの方が8月6日投下時ではなく、何日かして近隣の村から親類を助けに来たり、今で言うボランティアのように片づけにやってきて一週間、二週間と滞在するうちに被爆をした人たちだという。それは70年前の話だろうと言う人もいるかもしれない。そうだろうか。福島に除洗に来た作業員が防護服をつけずに被曝したと言うニュースは最近の事だった。70年経っても放射能の専門家はこの程度の知識しか持っていない。そんな人たちの語る安全にはクエスチョンマークがついてしまう。放射能の残存した中での70年前の人たちの被爆、40年前の私の見てきた偏見と差別、古い話なのだろうか。「福島ナンバーの車はあっち行け」と言われた人がいた。広島よりは放射線量は少ないかもしれない。しかし、30年浴び続けた子どもはどうだろう。その人が健康でも結婚や出産の時に何の障害も出ないのだろうか。誰も答えを出していない。

政治の世界では国内の混沌から国民の目を逸らさせる時、国の外へと関心を向けさせる。今回のオリンピック騒動がそうではないか。汚染水の問題や福島の現状から国民の意識を切り離し、その間に他の原発をチョイチョイのチョイと動かそうとしている風に見えるのは私だけだろうか。
オリンピックの狂騒から、昔の広島と現在の福島がかぶるのを感じてしまう。