福島応援

福島応援
みんなで集まってにっこりわらって

2015年7月11日土曜日

2015年7月11日街頭活動チラシ②




~誰のため、何のための帰還か~


5月に福島応援OnSongがお邪魔した仮設住宅は楢葉町から避難された方が暮らしていました。楢葉町は「避難指示解除準備区域(年間放射線量20ミリシーベルト以下)」として全町避難指示が出されており、立ち入りはできるものの居住は出来ない状態です。しかし、6月17日町議会において政府の担当者より8月のお盆前に避難指示解除との話が出ました。

仮設住宅に住んでる方からは「帰還にむけた3ヶ月間の準備宿泊を試してみたけど、人の気配の無い中で明かりも無く、3日しかもたなかった」との話を伺いました。住民の考え方や感じ方からすれば帰還するにはまだ足りないものが多い、しかし、準備宿泊が4月から3ヶ月の期間で始まっていることを考えると見事にスケジュール通りの決定であることが判ります。新聞やニュースは「解除されれば役場とともに避難している7町村では初めてで、本格帰還の第1弾となる。(朝日新聞)」と伝えています。



しかし、水源のダム湖の底には高濃度の放射性物質が沈殿し、除染にしても敷地内の庭木は伐採できないため放射性物質が付着したまま。持ち主のわからなくなった廃屋は除染も出来ず放置されています。避難者は「除染の行われていない山林はともかく、町の中だって放射線量は全部が全部下がったわけではない。みんな被曝の不安を持っている。特に子どもをもった親は心配している。町民は安全、安心を待っているんです」と話されています。住民からの反発を受け、楢葉町の避難指示解除は9月5日となりましたが「たった一ヶ月伸ばしただけじゃないか。『住民の声を聞きましたよ』とポーズを取っている。結局国の一方的な都合で物事が決まっている」との話もあり、不信感が強く残っています。



都合とはいったい何でしょうか。避難指示解除が出されればその後1年間で賠償金は打ち切られます。さらには、政府は避難の期間を「6年」とする新しい方針を立てました。これは2018年3月には避難させられている全ての人たちへの賠償を打ち切ることを意味します。自主避難者に行われていた住宅無償提供は2016年度末に打ち切りが決まりました。これ以上原発事故被害者のために国庫負担をしたくない、支援策を打ち切りたい。そして2020年に東京オリンピックがあります。



精神的賠償として一人当たり月に10万円支払われている賠償金。3人家族なら30万円、4人家族なら40万円。しかし着の身着のままで生活の全てを奪われて避難してきた状態から、新しい定職に就くことは難しく、ふるさとは核汚染されその安全性は誰も保障できず、移住をするにしても仕事や学校などの生活基盤を固めるところから始めなければならず、また、家を建てるにしても資材や職人が不足している状況の中で、このお金はどう活かしていけば良いのでしょうか。そして「仮設住宅の近所に移り住んだ人がいるけど、ゴミは仮設に捨てにくるという話だ。近所からは“避難者は賠償金をもらっている”という目で見られて、イヤガラセだってないわけじゃない。地元に受け容れてもらえるように体制を整えなければダメなんだね。そうでなきゃ、(転居するなら)思い切って茨城とか埼玉とか新潟とか遠くに行くしかない」という話も聞きました。身動きもとれず、結局「帰還させられる」状況に避難者が置かれています。

そして、帰還した故郷は、果たして元の故郷でしょうか。「放射能の心配もあるけど、まず診療所が無いからね。救急車を呼んでもいわきに行って5件、6件とたらいまわしにされる。苦しんでいる人をそのまま見ているしかない。それに重病の患者を診ることの出来る先生が往診には来ない。年寄りも多いからね、いわきや南相馬と受け入れ協定を結ぶ必要もある。細かいことかもしれないけれど、それが積み重なっている。帰ってから、そのあとが大変ですよ。」仮設住宅の自治会長さんが話してくださいました。「オリンピックとかね、あと4年ずらしてもらえれば、建築の資材とか職人さんとか取られずに済むんじゃないかと思いますよ。あっちのほうが日報も高いし、放射能の心配も無い。職人さんだってそっちに動いちゃうでしょ。この状況をどうにかするには思い切った施策が必要ですよ・・・」最後に自治会長さんは「私たちも頑張りますので。」と話を結んでくださいました。

2015年7月11日街頭活動チラシ①




~うたのちから~


福島応援OnSongは必ず「アンパンマンのマーチ」を歌います。それは、震災のとき避難所でこのうたが子どもたちに勇気をあたえたからです。



2011年3月11日。三陸沖で起きたマグニチュード8の地震は大きな津波被害を東北沿岸各地にもたらしました。人々は津波から、そして原子力発電所事故による放射能から着の身着のままで逃れ、多くは避難所に身を寄せました。避難所での暮らしは不安とストレスで渦巻いています。そのとき、子どもたちを励ましたのが「アンパンマンのマーチ」をはじめとする歌でした。また、核汚染のあった福島においては、長期間にわたって子どもたちは屋外に出ることができませんでした。そのとき求められたのは、子どもたちの楽しめる歌でした。楽しいことが必要なのです。

私たちが歌う歌は「みんなが知っている歌」「みんなで口ずさめる歌」が基準になっています(童謡や文部省唱歌が多いのはそのためです)。これらの歌は、豊かな自然や景色、日々の暮らしを歌ったものが多くあり、それぞれの人の原風景を思い起こさせると思います。震災によって失われた我が家、原発事故によって追われた故郷。奪われた暮らしもその中にあるでしょう。しかし、記憶を頼りに、想いを頼りにして希望につなげてゆけるのも人の強さです。歌が気持ちを優しくして、誰かを助ける力になるかもしれない。これらの歌が、みんなの力になっていくことを願って、私たちは歌います。

歌はみんなのものです。歌の力はみんなの心をまとめます。そう考えるからこそ、福島応援OnSongは歌で応援を続けます。仮設住宅を訪れたとき、歌声がお互いの心の垣根を払ったことを私たちは改めて知ることが出来ました。歌を一緒に口ずさんでみませんか。

リクエストも大歓迎です。