福島応援

福島応援
みんなで集まってにっこりわらって

2014年5月11日日曜日

2014年5月11日活動報告

福島応援OnSong 定期活動 報告
2014年5月11日(日)
天候:晴れ
参加者:25人+α

日曜日という事もあり、たくさんの募金が集まりました。

また、参加する方もたくさんでした

久しぶりの顔もちらほら見えて、とても嬉しい気分です



反省会で寄せられた意見
・日曜のせいか、男子学生が多くて「寄付してくぞ!」って言ってたくさん入れてくれた

・5000円札!や千円札2枚など、大きな金額を入れてくれる人がいたほか「月に5万6千の年金なんです。これだけでごめんなさい。私もいっぱい苦労したから、これだけ、ね。」というお年寄りもいた。ありがたい。

・郡山に帰 ったとき、子どもがタンポポを摘もうとしたら「そんなもの摘むんじゃない!」と叱られてしまうような現実になってしまった。福島のニュースや応援を東京で発信してゆくことに意味がある

・民謡を歌うつもりだったけど、今回はできませんでした。次回チャレンジします。相馬盆歌の歌詞を見て胸にくるものがありました

・リクエストボードを作ってみました。次回には活用したいです

・「さんぽ」を歌ったが、この歌にあるような一日を子どもたちに過ごさせたい。

・若いお母さんでも資料を取ってくれない。関心がある人とない人がハッキリ分かれているのか

・今回はスピーカーの音量が大きめでしゃべりやすか った

・知らない人を巻き込むことができた。共感してくれた。積極的に仲良くしたい

・福島の人がカンパしてくれているみたい

・幼稚園に入る前の子どもがお父さんからお金をもらって入れてくれた

・「日曜だから来られる」という人がいた。この会が定着しているなと感じる。

・消費税も上がり、自分たちの暮らしも大変だと思う。でもこの会がみんなの励みになっていると思う

2014年5月11日活動チラシその2

~被災地・都路の声~

都路は、大熊町、葛尾村、川内村に隣接し、399号線と288号線に沿った、海抜350~700mの山村。冬は零下8~10度となる。もともとは人口3000人ほどの、水道もなく、井戸や山の水を共同水道とし、水洗トイレもない、自然豊かな、田園に囲まれたところで、産業は農業、畜産、林業など。山菜や川魚を食し、食費を出費することなく、質素を旨とし、素朴で忍耐強く、愛情あふれ、欲が少なく、仲間、親を大切にし合う。口数も少なく、自分を飾ることもない村人たちでした。これは、川内村、葛尾村、飯舘村等、山村の方々に共通したタイプです。
平成17年に都路を含む5つの町村(都路、滝根、大越、常葉、船引)が合併して、田村市となり、元都路の村長は田村市長のもとに属するようになりました。合併したとはいえ、都路はもともと交通機関も少なく、不便なところで、店も個人の店が5、6軒小さい店があるのみ。診療所と歯医者が各1軒、小学校と中学校が各1校の村です。
以下は、被災者自治会長さんから聞いたお話です。
・    原発から30キロ圏外は市から1人3万円出たのみ。精神的賠償金も、家の修理費も出ない。
・    20キロ~30キロ圏内は、2012年8月に緊急時避難準備区域の指定が解除。1年間は継続して精神的賠償金(月10万円)が出たが、その後は止まった。家の修理費として30万円出た。それ以上はどんなに領収証を持っていっても出してもらえない。(国や自治体のHPを見ると、20キロ~30キロ圏内は2011年9月30日に緊急時避難準備区域の指定が解除されていますので、自治会長さんの言う12年8月というのは、賠償金が打ち切られた時期のことではないかと思われますが、複数の自治会長さんが「12年8月解除」とおっしゃっています。)
・    20キロ圏内は、今はまだ精神的賠償金の月10万円は出ている。
・    原発の関連死に対し、話としては、世帯主500万円、それ以外は250万円と言われているが、いまだもらっていない。
・    弁護士を通し、原発関連死や葬儀代の補償、月10万円の精神的賠償金の継続などを申請しているが(都路で200人)未成立。

【都路住民の声と現状】
・    「20~30キロ圏内であっても、場所により、毎時0.6~0.7マイクロシーベルトあります。」
・    「“水を飲んでも良い”と言われても、不安で飲めません。」
・    「“米を作って食べても良い”と国は言う。しかしそのデータは我々にも役場にも、国は知らせてくれないので、放射線量については役場も我々も解らない。」
・    「我々が作った米は、農協に持っていき、買ってもらう。我々は自分で作った米は食べていない。新潟などの米を買って食べている。我々が農協に持っていった米はどこに行っているかは解らない。」
・    「都路の線量は高い。住んでいるところも高い。だのに、“帰れ、帰れ”と言う。20キロ圏内でも帰すと言う。それは我々に“死ね”と言っているようなものです。」

都路の住民は、賠償金も打ち切られ、自宅に帰っても農作業はできず、収入源がないために、やむなく富岡町の除染作業で糧を得ています。作業現場では、防護服を着ることなく、マスクとゴム手袋、長靴で働いている、と言います。1日9~15マイクロシーベルトを浴びてくると言います。危険手当1万円、1日の手当6千円で、1ヵ月15回位行っている、とのことです。これをしないと、収入はゼロです。
除染、草刈りは公共の場しか役場はしません。個人の家は個人で、というのが原則なので、家屋敷の草刈り、掃除、家の修理も個人任せです。役場も、「国から言われているのでできない」とのことです。しかも費用は国も役場も出しません。若者不在となり、高齢者の皆さんがどこまで自力でできるでしょうか? お金が無い方々なのに。

都路のレポートはブログ「福島の現実―福岡百子の声」より、ご本人の承諾を直接得て抜粋したものを掲載しています。ここに載せ切れなかった都路のレポートのほか、被災した方の切実な声が伝えられています。ご一読ください。
福島の現実-福岡百子の声 momfukuoka.exblog.jp

2014年5月11日活動チラシその1

~2014年・ふたつのレポートより~

東日本大震災、そして福島第一原子力発電所の事故から3年が経過しました。
福島応援OnSongが活動をしていると「まだ頑張っていたの?」という声も聞こえる様になっています。

震災・事故は収束したのでしょうか。
「復興」はなされたのでしょうか。

現在福島で何が起きているのか、二つのレポートをお伝えいたします。
ひとつは北海道へ避難された宍戸隆子さんの富岡町の様子、もうひとつは福岡百子さんの都路(みやこじ)レポートです(レポート内写真は福島応援OnSongの活動時のものです)。

4月18日、ウクライナにあるチェルノブイリ博物館のアンナ副館長、キエフの小児科バレンティーナ医師と一緒に福島県の富岡町に行ってきました。
富岡町は東京電力福島第一原子力発電所から10キロ圏にあり、現在も避難指示が出されたままです。私は震災当時は第一原発から50キロ以上離れた伊達市に住んでいましたが、生まれも育ちも子の富岡町です。富岡に入るにあたっては、当時富岡在住で、今ボランティアで富岡ツアーを企画しているFさんにガイドをお願いしました。

合流場所のいわき駅から国道6号線を北上していきます。

いわき市内は毎時0.1~0.2マイクロシーベルト。アンナさんによれば、キエフと同じくらいの線量で安全とのこと(これについては異論もあるかもしれませんが、アンナさんはそうおっしゃいました。)富岡町に近づくにつれ、少しずつ線量が上がっていきましたが、富岡町の境を過ぎたとたんに一気に線量が上がりました。これは除染の進行状況が関係していると思われます。富岡町の除染は始まったばかりです。環境省はこれから3年をかけて除染をして、富岡町に人を戻す計画とのことです。しかしながら、私にはそれが可能だとはやはり思えませんでした。

富岡町に入るのは3回目です。2012年の9月2013年の9月、そして今回です。

今回が一番、状況をひどいと感じました。

津波で流された沿岸部を今、除染土置き場にするべく整地が始まっています。作業員は普通の作業着で、マスクもしていない方が大半です。フレコンパックに詰められた土があちこちに積み上げられています。震災当日、非番だった若い警官が津波の避難誘導にあたっていて波にのまれました。一人は30キロ離れた沖合で死体で見つかり、一人は今も行方不明です。つぶれたパトカーが今も残っています。その場所の線量は毎時1マイクロシーベルト以上。町の中でも比較的線量の低い沿岸部ではちょっと高いかなという感じでしたが、ここでアンナさんが「ベータ線があります。ここに長くいてはいけない」と線量計を見せてくださいました。軍使用の線量計でベータ線だけで毎時0.2マイクロシーベルト。ガンマ線よりもベータ線の値をずっと気にしていらっしゃったのが印象に残っています。

18メートルのがけの上にある飲食宿泊施設から、福島第二原発を眺めました。その施設の1階は、がけを駆け上がってきた津波によってぶち抜かれていました。
この津波は海岸線の向こうの原発も襲った。
ガイドのFさんから「第二原発のその時の所長が、電気設備屋上がりだったから第二は止めることができた。ひとつ前の所長だったら、第二も爆発していた可能性が高い。」と聞きました。また、第一原発も、吉田所長のお話を含めてどれほどの状況が起きていたのか、その一端を知ることができました。

あのとき、私たちは原発で働いていた人たちに命を救われたんです。ですが、町民よりも先にいなくなった東電関係者もたくさんいます。

私の実家にもよりました。前回2回と違い、庭の草はきれいに刈り取られていました。実家にも除染が入ることになっているとこのことです。
ですが、線量は毎時3マイクロシーベルト越え。6か月前とほとんど変わっていませんでした。
雨どいの下は8マイクロ、隣の神社も4マイクロ…。すでに自然減衰のスピードは鈍化しています。

簡易とはいえ、N95のマスクとタイベックを着用した私たちは、やはり浮いていました。作業員をはじめ、時折すれ違う人も今はほぼ普段着で出入りしています。

富岡町には夜の森公園という桜の名所があります、満開のときは、子連れの方(15歳以下は立ち入り制限がかかっているのですが)、桜の下で宴会をする方もいたそうです。富岡町は帰還困難区域(年50マイクロシーベルト以上)、居住制限区域(50マイクロ未満、20マイクロ以上)、避難指示解除準備区域(20マイクロ未満)に分かれています。
居住制限区域までは事実上出入りは自由です。その中で、何をどこまで警戒するのか、線量計をのぞかなければごくごく普通の街並みがそこにあります。だれも住んでいなくて、朽ちていくばかりの街並みですが…。

今回、私が富岡に入ったのにはアンナさんの案内することのほか、Fさんとお話しすることが目的でした。
なぜ、富岡を案内しつづけているのか、それを直接聞きたかったからです。
彼は安全派では決してありません。
わざわざ放射線管理の資格も取って、それでも自分はマスク一つで案内をしてくれています。
それぞれの選択を認め合うしか、今はできないのではないか。

その思いは私と共通のものでした。
安全がなにか、危険が何か、明確な答えがない中で、それぞれが選択をしたその行動を否定することはできない。

今、福島の人の心の分断はより、深く進んでいます。

放射能のこと、賠償のこと、避難をするかしないか、汚染地に出入りすること、危険に対する認識。ちょっとの差異すら、認めることができずにいがみ合っています。私は「避難者の思いの純化が怖い。」とFさんに話しました。それは福島を切り捨てることにつながるからと。
「でも、自分が正しいと思わなければ、思いを純化しなければ、心が壊れてしまう。だからそれは仕方がない流れなのではないか。」とFさんにさとされました。

それだけ、私たちは追い詰められているということなのかもしれません。原発事故は、私たちを今もむしばみ続けています。

なぜ、私たちはいがみ合わなければならないのでしょう?

最後になりますが、今回富岡入りすることをたくさんの人に止められました。それを振り切っての富岡行でした。
過去2度の富岡入りで、私はやはり放射能の影響を過小評価していたように思います。
同行した方の一人が体調を崩されました。
それが、放射能のせいだと言い切ることも証明することもできません。
ですが、ひょっとしたら…の気持ちはずっと続きます。
もし万が一、命にかかわるようなことになったら…それを考えると、ぞっとしました。私の浅慮が、誰かを危険にさらすことになる。そんなことを考えなければならない場所に、私の故郷はなってしまいました。
今、復興が叫ばれる中で、私たちのかい離は進行しています。
すでに過ぎ去ったことではなく、現在進行形のそれは被害です。
皆様が、福島について関心を持ち続けてくださいますよう、心よりお願いいたします。

宍戸 隆子