福島応援

福島応援
みんなで集まってにっこりわらって

2015年4月11日土曜日

2015年4月11日街頭活動チラシ①




~支援を途切れないようにする責任~


福島応援OnSongで毎月配布しているチラシに情報を寄せてくださる福岡百子さんにお会いしてきました。福岡さんは「被災者の方を身内のように思うのです。それは私が福島生まれだからかも知れません」と話される、ごく普通の女性ですが、その支援活動は並ならぬ情熱と愛にあふれたものです。今回はその報告と、その間に支援者として福岡さんが聞いた福島の声と、課題についてお伝えします

千葉県松戸市に暮らす福岡さんは、地震が起きた年の6月に新聞のコラムで大熊町のかたのことを知り「この人を何かしなきゃ」と考えたそうです。生まれつき弱く、大病を患い、命の限界すら感じていた身体ですが「手と声なら使える。電話なら何とかできる」と104で電話番号を調べ、大熊町の人々の避難先を知り、生活必需品を物資として10箱送りました。それ以降、福岡さんの避難者に物資を送る活動がスタートしました。

福岡さんは当時を振り返りながら話されます。「避難した人たちに“何を食べているの?”と聞かなかったことが今でも悔しいです。ホテルが避難先になっていたのに、出された食事はスクランブルエッグをスプーン1杯、岩のりがスプーン1杯、ソーセージが1本だったそうです。避難者は、ホテルにいながら痩せてしまっていた。さらに、避難者はホテルから「客の前には出るな」と言われていた。でも、それに文句を言う避難者はいなかったそうです。いずれ生活を立て直せる、国が救ってくれると思っていたからです」。トイレットペーパーすら自前で用意させられていた避難者へ福岡さんは物資を送り続けました。当時、全国から救援物資が被災地へ送られていました。しかし、物資が集められてそれが配られ始めると、その場所から近い自治体に先に物資が行ってしまい、遠くへ避難した自治体の人々へ物資は届かなかったとのことです。特に福島県では原発事故のため国が支援者を中に入れず、さらには交通網が寸断され物資が届かず、先に岩手県や宮城県へ支援物資が行ってしまう状況が続いていました。104で避難先を調べ、電話で必要な物品を確認し、その物資とともに、人数分の小袋に一人ずつのお菓子と手紙を添えた手作りのカードを入れて福岡さんは物資を送り続けました。やがて、役場とつながり、個人とつながり、具体的な支援ができるようになっていきます。

2011年の11月から12月にかけて、福岡さんは日本中の宗教団体、企業、新聞社、マスコミ、政党、総理大臣にも手紙や電話で「福島を救ってほしい」と働きかけました。反応は薄く、取り上げられることも少なかったそうです。しかし神戸物産(業務スーパー)の社長さんが“この人は信頼していい”と言って物資の提供を申し出てくれました「有難いことでした。どこの避難先が何をどれだけほしいのか全て私が調べて“充分の支援が出来る量”を配分して神戸物産さんに伝えて、10トントラックで900ケースの食品を村落ごとに順次配ってもらいました。なんと34便被災地に届けていただきました。福島の被災地のほぼ全市町村の仮設住宅、学校、施設にに配ることが出来ました。」と福岡さんは振り返ります。しかし、震災から1年を過ぎるまで放射能のため福島県では流通が滞っており支援物資を届けることは難しい状態でした。そのころ、岩手や宮城の被災地では余剰物資の話が出てきました。「被災地に全国から届けられた支援物資が余ってしまい処分せざるを得ない」とのニュースを聞いて福岡さんは「余っているなら福島の被災地に送ってほしい」と関係者に電話したそうです。しかし「他県に入ったものは手が出せない」との返事がかえってきます。「一人で動くことの限界でした。国が動けば余剰物資を福島に回せたのだろうけど、しなかった。でも、この頃はやる気と情熱があれば何でも出来るんじゃないかとすら思って、とにかく仮設住宅へ役場と連携して物資を送ったんです。」大熊町の避難者の支援から始まり、各役場の助けを得て、仮設住宅の自治会長と連絡しあいながら“充分な支援”をと取り組んだ福岡さんでしたが、ご家族やご自分の体調不良もあり、今後、この支援を継続してくださる方を探しています。「被災者も支援者も天からのご縁で結ばれた大切な方々です。ひとりひとりの命を大切にしなければならないと思っています。これから私がしなければならないことは、支援者を探し、しっかりと引き継いでいく事です。被災者の“友”になって戴く方を探し、私の死後も継続して行っていただける様にすることです。これが私の役目と思っています」。

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