福島応援

福島応援
みんなで集まってにっこりわらって

2014年5月11日日曜日

2014年5月11日活動チラシその1

~2014年・ふたつのレポートより~

東日本大震災、そして福島第一原子力発電所の事故から3年が経過しました。
福島応援OnSongが活動をしていると「まだ頑張っていたの?」という声も聞こえる様になっています。

震災・事故は収束したのでしょうか。
「復興」はなされたのでしょうか。

現在福島で何が起きているのか、二つのレポートをお伝えいたします。
ひとつは北海道へ避難された宍戸隆子さんの富岡町の様子、もうひとつは福岡百子さんの都路(みやこじ)レポートです(レポート内写真は福島応援OnSongの活動時のものです)。

4月18日、ウクライナにあるチェルノブイリ博物館のアンナ副館長、キエフの小児科バレンティーナ医師と一緒に福島県の富岡町に行ってきました。
富岡町は東京電力福島第一原子力発電所から10キロ圏にあり、現在も避難指示が出されたままです。私は震災当時は第一原発から50キロ以上離れた伊達市に住んでいましたが、生まれも育ちも子の富岡町です。富岡に入るにあたっては、当時富岡在住で、今ボランティアで富岡ツアーを企画しているFさんにガイドをお願いしました。

合流場所のいわき駅から国道6号線を北上していきます。

いわき市内は毎時0.1~0.2マイクロシーベルト。アンナさんによれば、キエフと同じくらいの線量で安全とのこと(これについては異論もあるかもしれませんが、アンナさんはそうおっしゃいました。)富岡町に近づくにつれ、少しずつ線量が上がっていきましたが、富岡町の境を過ぎたとたんに一気に線量が上がりました。これは除染の進行状況が関係していると思われます。富岡町の除染は始まったばかりです。環境省はこれから3年をかけて除染をして、富岡町に人を戻す計画とのことです。しかしながら、私にはそれが可能だとはやはり思えませんでした。

富岡町に入るのは3回目です。2012年の9月2013年の9月、そして今回です。

今回が一番、状況をひどいと感じました。

津波で流された沿岸部を今、除染土置き場にするべく整地が始まっています。作業員は普通の作業着で、マスクもしていない方が大半です。フレコンパックに詰められた土があちこちに積み上げられています。震災当日、非番だった若い警官が津波の避難誘導にあたっていて波にのまれました。一人は30キロ離れた沖合で死体で見つかり、一人は今も行方不明です。つぶれたパトカーが今も残っています。その場所の線量は毎時1マイクロシーベルト以上。町の中でも比較的線量の低い沿岸部ではちょっと高いかなという感じでしたが、ここでアンナさんが「ベータ線があります。ここに長くいてはいけない」と線量計を見せてくださいました。軍使用の線量計でベータ線だけで毎時0.2マイクロシーベルト。ガンマ線よりもベータ線の値をずっと気にしていらっしゃったのが印象に残っています。

18メートルのがけの上にある飲食宿泊施設から、福島第二原発を眺めました。その施設の1階は、がけを駆け上がってきた津波によってぶち抜かれていました。
この津波は海岸線の向こうの原発も襲った。
ガイドのFさんから「第二原発のその時の所長が、電気設備屋上がりだったから第二は止めることができた。ひとつ前の所長だったら、第二も爆発していた可能性が高い。」と聞きました。また、第一原発も、吉田所長のお話を含めてどれほどの状況が起きていたのか、その一端を知ることができました。

あのとき、私たちは原発で働いていた人たちに命を救われたんです。ですが、町民よりも先にいなくなった東電関係者もたくさんいます。

私の実家にもよりました。前回2回と違い、庭の草はきれいに刈り取られていました。実家にも除染が入ることになっているとこのことです。
ですが、線量は毎時3マイクロシーベルト越え。6か月前とほとんど変わっていませんでした。
雨どいの下は8マイクロ、隣の神社も4マイクロ…。すでに自然減衰のスピードは鈍化しています。

簡易とはいえ、N95のマスクとタイベックを着用した私たちは、やはり浮いていました。作業員をはじめ、時折すれ違う人も今はほぼ普段着で出入りしています。

富岡町には夜の森公園という桜の名所があります、満開のときは、子連れの方(15歳以下は立ち入り制限がかかっているのですが)、桜の下で宴会をする方もいたそうです。富岡町は帰還困難区域(年50マイクロシーベルト以上)、居住制限区域(50マイクロ未満、20マイクロ以上)、避難指示解除準備区域(20マイクロ未満)に分かれています。
居住制限区域までは事実上出入りは自由です。その中で、何をどこまで警戒するのか、線量計をのぞかなければごくごく普通の街並みがそこにあります。だれも住んでいなくて、朽ちていくばかりの街並みですが…。

今回、私が富岡に入ったのにはアンナさんの案内することのほか、Fさんとお話しすることが目的でした。
なぜ、富岡を案内しつづけているのか、それを直接聞きたかったからです。
彼は安全派では決してありません。
わざわざ放射線管理の資格も取って、それでも自分はマスク一つで案内をしてくれています。
それぞれの選択を認め合うしか、今はできないのではないか。

その思いは私と共通のものでした。
安全がなにか、危険が何か、明確な答えがない中で、それぞれが選択をしたその行動を否定することはできない。

今、福島の人の心の分断はより、深く進んでいます。

放射能のこと、賠償のこと、避難をするかしないか、汚染地に出入りすること、危険に対する認識。ちょっとの差異すら、認めることができずにいがみ合っています。私は「避難者の思いの純化が怖い。」とFさんに話しました。それは福島を切り捨てることにつながるからと。
「でも、自分が正しいと思わなければ、思いを純化しなければ、心が壊れてしまう。だからそれは仕方がない流れなのではないか。」とFさんにさとされました。

それだけ、私たちは追い詰められているということなのかもしれません。原発事故は、私たちを今もむしばみ続けています。

なぜ、私たちはいがみ合わなければならないのでしょう?

最後になりますが、今回富岡入りすることをたくさんの人に止められました。それを振り切っての富岡行でした。
過去2度の富岡入りで、私はやはり放射能の影響を過小評価していたように思います。
同行した方の一人が体調を崩されました。
それが、放射能のせいだと言い切ることも証明することもできません。
ですが、ひょっとしたら…の気持ちはずっと続きます。
もし万が一、命にかかわるようなことになったら…それを考えると、ぞっとしました。私の浅慮が、誰かを危険にさらすことになる。そんなことを考えなければならない場所に、私の故郷はなってしまいました。
今、復興が叫ばれる中で、私たちのかい離は進行しています。
すでに過ぎ去ったことではなく、現在進行形のそれは被害です。
皆様が、福島について関心を持ち続けてくださいますよう、心よりお願いいたします。

宍戸 隆子

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